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開発教育支援

第4回インドネシア高校生エッセイ・コンテスト特選受賞作品

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受賞作品1
テーマ:私の知っている日本『ドラえもんにみる日本の夢』
デウィ・チャヤ・アンバルワティ
DEWI CAHYA AMBARWATI 
国立ジョグジャカルタ第3高等学校
SMU 3 YOGYAKARTA

 日本は重工業製品や自動車、電気製品の生産で有名なだけでなく、子供向けのアニメーション産国としても知られています。すでに多くの子供向けアニメーション番組が、過去に、あるいは現在でもインドネシアのテレビでも放映されています。
 インドネシアのテレビで放送されている子ども向けアニメーション番組としては、ドラえもん、ミンキー・モモ、キャンディ・キャンディがラジャワリ・チトラ放送局で観れますし、スルヤ・チトラ・テレビではコジローやBT−Xネオが放映され、ドラゴンボールと忍者ハットリくんはインドシアール局で現在も続いています。その他、クルアルガ放送局では、カード・キャッチャーさくらやモジャッコが放映されています。
 私の観たところ、子ども達の間で一番人気があるのは、ドラえもんです。日本の漫画家で今は亡き藤子・F・不二雄氏が漫画本で連載したものが、現在の連続アニメーション番組になりました。ドラえもんは、インドネシア語版の漫画本が発売されて以来、インドネシアでも評判でしたが、作者が亡くなったため、漫画本版ドラえもんは終了してしまいました。一方、アニメーション版のドラえもんの方は、今でもテレビの画面でみることができます。ドラえもんは、未来の世界から現在の世界にやってきた「ドラえもん」という名の一匹の不思議な猫のお話です。彼は人間のように話すことができ、人間と交流できます。また、のび太君と仲良しで、のび太君一家と同居しています。ドラえもんは、不思議なポケットから様々な便利な道具を取り出してみせることができます。たとえば、ホームサテライトやどこでもドア、タイム・ホール、タイムトリモチ、宇宙人呼び出し機、なんでもコピー機、ロケット、タイムマシン、などなど。ドラえもんがとりだす便利な道具を見ていると、日本がつくる未来的で便利な機械や道具を連想されます。しかしもっとよく見れば、そこには夢の国になろうとする日本の願望が浮き上がって来るのです。今のところドラえもんの道具の多くは実現してないにしても、日本の願望が達成する日が将来来ないとも限らないのです。現時点では日本はまだタイムマシンは持っていませんが、何年か後には日本人が未来や過去の時空を行き来しているかもしれないのです。勤勉に努力を重ね、日本人はロケット開発にも成功しているのですから。
 ドラえもんの中にでてくる人物の愉快な行動は、いつもファンに爽やかな印象を与え、楽しませてくれます。子供たちにとって、ドラえもんの面白くてかわいいキャラクターが最大の魅力です。しかし、ドラえもんは子ども番組とはいえ、充分に教育的内容を含んでいます。たとえば、友情の大切さ、助け合いの精神、弱者への思いやり、正義感、勤勉の大切さ、他人を羨むことへの戒め、というように。
 日本は、他国を植民地支配した歴史を持ちます。しかし、1945年の第二次世界大戦で負け、悲惨な時代も経験しています。ドラえもんには、日本のイメージの回復を願うメッセージが込められているのではないでしょうか。日本は現在、経済的に困難な国々に援助をする支援国ですし、高品質で高技術な製品を生産し続けるために不断の努力を続けてきました。日本製品の多くが世界の市場を席巻していることからも、努力のほどが分ります。日本国民は、最後の力がつきるまでその手を休めようとしないでしょう。不撓不屈のサムライ魂が日本国民全体にしっかりと根を下ろしているのです。このような日本国民が一致団結して努力した結果、西洋に負けないアジアの先進工業国になることができたのです。
 ドラえもん人気から、この番組に出てくる登場人物の絵柄をいれた商品を発売する企業も現れました。たとえば、服やおもちゃ、帽子、バッジといった具合です。学校で使う勉強道具にも、ドラえもんの登場人物達の絵がお目見えしています。商業的にも、ドラえもんは子ども用品を製造する企業にインスピレーションを与えてきました。
 たぶん、ドラえもんは日本の夢そのものなのでしょう。ドラえもんの中に、日本国民の願望のいくつかが素朴な形で現れているような気がします。この番組を観るのはほとんどが子供なので、ドラえもんを観る子供たちは、小さな頃から間接的に日本という国を認識し始めるのでしょう。

参考文献
Cobert Brian.
“The Conscience of Japan”, Kyoto Journal No.17.1991,44−46頁、
京都:平安文化センター

藤子・F・不二雄
ドラえもん、17巻、1993年ジャカルタ:
Elex Media Komputindo、Kelompok Gramedia

Katsuta,Shuichi&Toshio Nakamura
日本の教育1986年、東京:
International Society for Educational Information,Inc.

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受賞作品2
テーマ:私の知っている日本『平和を愛する国、日本の肖像―“トットちやん”と“二十四の瞳”』
アグネス・ティティ・クスマンダリ・ヌグロホ AGNES TITI KUSMANDARI NUGROHO
私立ジャカルタ・アシシ高等学校 SMU ASISI JAKARTA

 私と日本の出会いは、何年も前に母が話してくれたトットちゃんという日本人の少女の物語にまでさかのぼります。四季のある国ではとても美しい花が咲くのだ、と母は教えてくれました。桜という名の花は、大地を覆う雪が溶けたあとにめぐって来る季節に咲くのだ、と。母がその話をしてくれた頃は、春という季節がどんなもので、雪がどれほど冷たいものなのか、私にはまだ分かりませんでした。ただ、私の想像の中には、息を弾ませて丘を駆け下りるピンク色をした頬の小さな少女が見え、それがトットちゃんだったのです。
 『窓際のトットちやん』は、著者である黒柳徹子が1940年代頃の少女時代の思い出を綴ったものです。通っていた学校を退学になった後(何十年もたった後で退学になったのだという事実に本人は気が付いたのですが)、トットちやんはトモエ学園に編入します。その学校の校舎はとてもユニークで素敵でした。なぜなら、使われなくなった電車の車両を教室にしていたのですから。面白いのは校舎の外見だけではなく、授業の進め方もユニークでした。たとえば、先生に与えられた課題を時間内に終らせることさえできるなら、好きな教科からやりはじめる自由が生徒に与えられていました。
 トットちゃんは、相次いで色々な経験をします。たとえば、兵隊として出征する小使いのおじさんの送別会では、日本の伝統的儀式である「茶の湯」を体験しました。「茶の湯」は中国から伝来したもので、仏教の僧達の間では病気を治す効能があると信じられていました。この伝統は13世紀頃になってはじめて日本に伝来したものです。どんな細かい所作も、すべて禅の思想である和・敬・清・寂を象徴しています。
 トモエ学園の生徒達が良ちゃんと呼んでいる小使いのおじさんは、アメリカと戦争するために戦地に行こうとしています。その頃アメリカは、1941年12 月7日に起こった真珠湾攻撃に対する報復として、日本を爆撃する準備を進めていました。こうして、大量の爆弾が日本に落とされ、小林校長や生徒みんなの自慢だつたトモエ学園の校舎も、焼け落ちて焦土と化してしまったのです。本当は、心優しい小使いの良ちやんが戦地に赴くことを望んでいる人は誰ひとりとしていませんでしたが、そうしなければならないことはトットちやんにさえ分かっていました。  戦争は、壷井栄の『二十四の瞳』にでてくる岬村の子供たちの青春時代をも壊してしまいます。この話は、大石先生と12人の素朴な生徒たちが年月とともに徐々に変わっていく様子が描かれています。経済不況と戦争の前に、ある者はなすすべもなく現実に流されてゆきます。松江は学校を中退し、小さな天ぷら食堂の見習いとして働かざるを得なくなります。一方、旧家の令嬢だった富士子は、家族の意思により若者に売られていきます。
 大石先生は、日本政府が進める戦争に本当は断固として反対しています。彼女の父親も夫も戦地に赴き、二度と帰ることはありませんでした。教え子の男子生徒から軍隊に入る意向を告げられた時、先生はつらそうに微笑むだけでした。先生の反戦思想は当時としては受け入れられず、先生自身の長男でさえもが戦死を名誉と信じているほどでした。
 日本民族は勇猛かつ果敢、そして愛国心が強いことで有名です。こういった国民性は、昔からよく知られていました。サムライの時代には、戦に出る武者は顔全体を覆い隠すほどの大きな面を付け、それは顔を保護するだけでなく戦闘開始前に敵を威嚇する役割も果たしました。外見は恐ろしいけれども、サムライは規律を遵守し死をも恐れないことで有名でした。とはいえ、実際は日本人全員が戦闘的で死を恐れないわけではありません。「トットちゃん」や「二十四の瞳」は、生の素晴らしさや友情の美しさを貴ぶ人々の姿を描き出しているのです。
 以上が、日本に対してわたしが持っているイメージです。意外なことに、このふたつの少年少女物語をきっかけとして、わたしは日本人をもっとよく知りたいと思うようになりました。また、日本人の少年少女をとても身近に感じるようになりました。彼らと一緒に日々を送り、楽しいことつらいことを分かち合うのです。まるで幼なじみのように語り合うのです。このようにして、平和を愛し人情に厚い日本人という民族のすばらしさを、私の分身が感じるのです。トットちゃんや大石先生、富士子、たけし、そして24の瞳の持ち主たちは、わたしの生を意味あるものにしてくれました。彼らには感謝を惜しみません。

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受賞作品3
テーマ:私の知っている日本『時間の流れと共に見えてきた日本』
ディアン・レスタリニングシ DIAN LESTARININGSIH
国立ジョグジャカルタ第3高等学校 SMU 3 YOGYAKARTA

 「日本」と聞いて思い浮かぶのは、よく耳にする「日出る国」、「桜の国」、さらに「インドネシアの兄」(これは「八紘一宇」の精神で繁栄した第二次世界大戦中の日本を思い起こさせる)などの言葉だ。
 日本を表現する言葉の数は、日本の国民一人当たりの所得水準と共に生活費が向上し、世界における先進国の一つとして知られるようになってから、ますます増えた。私が日本について初めて知ったのは小学校の社会科の授業であり、日本への感嘆の気持ちが芽生え始めたのはこの頃である。
 日本は自らが創造した技術を使って世界を動かす力を持っていて、様々な分野における国際競争の中で大きな役割を担うことができるのではないかと、私は13才頃から期待を込めてそう思うようになった。
 そして、日本人が様々な制限(狭い国土と少ない天然資源)の中で、優秀な人的資源を使ってあらゆるものを作り出しているということを知り、私の日本に対する感嘆の気持ちは一層強まっていった。
 中ジャワ地方の中学生が感嘆の気持ちを持ったのは、自然の成り行きだったかもしれない。なぜなら、世界中のほとんどの人たちも感心しているに違いないのだから(日本人の大きな「パワー」を恐れながらも!)。更に日本を深く知るきっかけとなったのは、私の日本に対する感嘆の気持ちを汲んでくれた父の役割が大きい。私は父から(限られてはいたが)日本の物心両面についてより詳しい情報を得ることになった。父は読んだことのある数冊の本の内容を私に話してくれた。私が父の話から得たものは、彼が話の中で強調した、日本人の規律正しさ、責任感、そして高い勤労意欲を持っていることである。
 日本人のように成功したいと私が言うと、父は「今日からお前は規律正しく勉強するんだ。そして自分のしたこと全てに責任を持つようにしなさい。」と私に言った。それ以来、日本人の生き方を見習おうという私の気持ちに一層拍車がかかっていった。それもあって、私は自分自身ができるかぎりのことをしようと思うようになった。
 高校3年生になった今、私はより幅広く、よりたくさんの日本のイメージを持っている。なぜだろうか?それは、頻繁に日本に出張に出かけるだけではなく、日本に滞在したこともあるという父を持つ親友がいるからだ。彼女の家族を通じて、私は日本のことをより深く知ることができた。
 私の日本をもっと知りたいという気持ちは、少し満たされた。私たちは、日本の政治や経済のこと、日本人の生活習慣に関することなど頻繁に意見を交換した。そして、日本で起きたことの中で、同じようにインドネシアでも起こっていること、または将来起こり得るかもしれないことについて比較したりもした。例えば明治維新(1868年)とインドネシアの工業化に向けての努力についてであった。
 それ以外に、私たちが話し合ったのは、学生が研究や読書に関心を持っているインドネシアと日本の比較についてである。私は、インドネシアの生徒は読書を好む人は比較的少ないと考えていた。その考えにセカルのお父さんは賛成し、政府が所蔵図書を増やすなどの支援に力を入れていないことと切り離して考えることはできない、と言った。研究に対する関心が低いのは、インドネシア人自身の国民性や習慣にも起因しているらしい。彼の話では、日本では読書は大切なことであり、そのための施設も整っているという。研究に関してはその成果に対しての評価が低く、きちんと保護もされていないことがインドネシア人の研究意欲を下げることに繋がっているそうだ。また、日本人は非常に好奇心が旺盛なのだという。
 友人の家族と話したいくつかの些細ではあるが有益なことは、その後も私の中に残り、日本人と直接交流してみたいという密かな願いとなった。だから長野の林業学校と大分県立の高等学校の生徒、それからNALAPOの皆さんの来訪の準備を手伝ってほしいと、友人のお父さんに頼まれた時は、正に神様からの贈り物だと思ったここれまでは話でしか聞いていなかった日本の人たちと直接交流ができると思うと本当にうれしかった。
 その日が来て、私は何人かの生徒と知り合いになった。マトギ・ユキさん、ハシモト・ミツヒロさん、それにアストロ・ボーイと皆にあだ名をつけられたイトウ・ケイタさんだ。私たちは文化や教育、食生活にいたるまで実に様々な話をした。短い彼らとの交流をまとめてみると、確かに日本人は非常に好奇心旺盛で、とても規律正しかったように思う。その証拠に、インドネシア時間の19:00訪問というスケジュール通り、秒針までぴったりに彼ら一行はやって来たし、ユキは食事の時に出された「グドゥック」(注:ジョクジャカルタの郷土料理)の中のレバーの唐辛子炒めに興味をしめすと、迷わず口に入れた。その後、ユキは辛がってはいたけれど。また、彼らはジャワ舞踊をやってみたいと思ったらすぐに目の前で踊りを披露していた踊り子さんたちの中に混ざって踊り始めたのだ。
 しかし、旺盛な好奇心の裏側に彼らに感じたのは、外国語で話すことに抵抗感を持っていることだ。そのため彼らとのコミュニケーションは少し難しかった。でも、その問題はそれ程長くは続かなかった。というのも幸運なことに、私たちはコミュニケーションを容易にするためにジェスチャーという武器を恥ずかしがることなく使ったからだ。
 短い彼らとの交流は、私にとってとてもよい経験となった。この10年余り私が聞いた様々なことを証明し、気になっていたことに対する答えをもらえた。
 それでも私はまだ日本を少ししか知らない。今のところは、文献、日イ文化学院、あるいは日本に詳しい人たちの話から学ぶことしかできないが、いつの日かきっと日本を訪れることができると楽観的に考えている。というわけで、私は「インドネシアの兄」の国についての知識を日々深めつつあるのである。
 夢が叶いますように…。

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受賞作品4
テーマ:私の知っている日本『“第二の人生”を楽しく有意義に送る日本』
ラッミ・スワスティニ・プルティウィ
RAHMI SWASTINI PERTIWI 
国立ジョグジャカルタ第1高等学校
SMU N1 YOGYAKARTA

 60歳を越え定年退職した老人は、その後「第二の人生」をむかえるといわれる。しかしその多くは、子供やその配偶者と同居しながら、有意義な活動をすることもなく日々を過ごすのが普通だろう。趣味で暇をつぶす人もいるだろうし、すっかり老け込み、孤独を感じ、自分を不必要な人間のように思い始め、子供の家に居候しながらただ死を待つだけの存在に感じ始める原因になるだろう。こんな状態になった老人は、面倒を見る子供の家庭にとっても往々にして負担となってくる。
 日本は、違う。日本は高齢者人口が世界で一番多い国である。1996年に国連から発表された世界人口動態予測(1950−2050)によれば、日本の 65歳以上の高齢者人口は2020年には3,274万人に上り、全人口の25%を占めるという。しかし、そうなっても日本は先進国としての地位を譲り渡すことはないだろう。なぜならば、日本の高齢者は新しいライフスタイルで日々を楽しく暮らし、周囲の人間にも役に立つ存在であり続けるからだ。そんな彼らのライフスタイルは、私たちにとって非常に参考になる。
 日本人の平均寿命は現在約80歳で、企業の定年は普通65歳位に規定されている。つまり、定年退職後の約15年間ほど、「第二の人生」を歩むことになるわけだ。彼らの定年後の活動はさまざまで、動物園のガイドをする者がいるかと思えば、観光地で子供たちに無償で折り紙を配る人もいるし、もう一度学校に通って卒業後に塾を開く人、さらには企業を自ら起こして多くの年金生活者に雇用機会を提供する者もいるという。
 日本の高齢者が老いてからもなお人生を楽しんでいるように見えるのはなぜなのか、若い頃には寝食も忘れて懸命に働いてきた彼らがなぜそうなれるのか、と私はよく考えてみる。つまり、彼らは目的をしっかりと持ち、それを達成するための新しい方法をあみ出してきたのだ。彼らは常に何らかの活動をしている。労働であったり、趣味に熱中したり、ボランティア活動に参加したりと。なぜなら、彼らは常に社会に必要とされていたいし、労働の喜びを享受したいし、そして何よりも他人に依存して面倒をかけたくない、それがたとえ自分の子供であっても、という動機があるからだ。
 老人は経験が豊富で、知識が幅広く、知恵がある。その経験や知識、知恵を老人が若者に伝え、一方では若者は老人たちとコミュニケーションする機会を持って、老人達をいたわり喜んでもらうことができればなんてすばらしいだろう。老人をレクリエーションに誘い、おしやべりし、冗談を言い合いながら、彼らのアドバイスを仰ぐことで喜んでもらうと同時に、彼らには医療サービスを提供することができる。
 旧来の老人的思考を変革する必要性を、若い世代の一員として私は感じている。私たちの国の老人が日々を憂うつの内に過ごし、時には孤独に耐えられず、そっと涙にくれるような、そんな現状を見るのは、とてもつらい。現役時代の義務を全うした後も、存在そのものが必要とされて、いっも明るく笑っている老人たちを、私は見ていたい。
 日本社会では、60歳は老人のうちに入らない。彼らはまだまだ体力も気力も十分だ。フランスの思想家ルソーによると、若い頃に学んだことを実際に活用するのが老年期だという。日本では、まさにこれを実践しているのだ。
 私は、ふと考える。インドネシアの老人達が旧来の習慣を変えてもっと楽しく意義ある人生を送れるように、日本の高齢者たちから彼らに意見してもらってはどうだろう、と。そうすればきっと、毎日を楽しく過ごす彼らの笑顔が見られるのではないか。歳をとってからも企業を起こしたり、精神的活動に多くの時間を割いたり、趣味を発展させてもっと魅力的で実利のあるものにしたり、地域住民にとっての知恵袋になったり、と可能性は広がる。
 日本の高齢者には、インドネシアに遊びに来たついでに、インドネシアの老人達と話し合えるような機会を持って欲しいし、あるいは“第二の人生”で成功した高齢者のプロフィールを載せた本を出版したりしてもいいだろう。日本とインドネシアの高齢者間の協力態勢を作るために、発明コンテスト等を開催し、隣国周遊ツアー等の賞を設けて協力関係構築を支援するのはどうだろうか。日本の高齢者はインドネシア各地を訪問し、反対にインドネシアの高齢者は日本各地を訪問するわけだ。
 日本人のように「第二の人生」に喜びを持てるということは、決して些末なことではない。人間が生涯にわたって質を高める努力を続け、互いに学び合い、民族の将来に備えるという意味で、とても大切なことだ。もっと人生の質を上げる方法があるのだとすれば、全ての人間がそうする努力をしなければならないのだから。

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受賞作品5
テーマ:私の知っている日本『日本、イメージのなかの実在』
デディ・トマ・ファルール・トビッ
DHEDY TOMA FAHRUR TOBIB
国立ジョグジャカルタ・マドゥラサ・アリヤ第1高等学校
MADRASAH ALIYAH NEGERI YOGYAKARTA 1

 日本。その国のことを聞かれたら、私なら即座にいくつかの光景を描写することができる。なぜなら、この「桜の国」についての情報は頭の中に整然と刻まれているから。学校の友人、近所の遊び仲間、他の町に住む文通相手、そして印刷メディアや電波メディアが私の情報ソースだ。
 私の中の日本は、まず富士山に広がる松林の朝のパノラマからはじまる。「桜の国」の半島が見渡す限り広がり、川や海がさざなみ立つ。日本はぐるりと水に囲まれた国で、北東には太平洋、西には日本海、南には東シナ海、北にはオホーツク海、そして四国と本州との間には瀬戸内海という具合だ。北海道の亜熱帯林を形成する多様な植物、日本アルプスに積もる雪、本州北部に位置する東北・北陸地方の厳しい自然、これらは言葉にしがたいほどの美しさである。日本の美しさにみとれていると、そびえ立つ富士山や清水寺の伽藍が物言わぬ証人として見てきた「桜の国」の建国物語を思い起こさずにはいられない。この偉大なる「日出る国」の礎は、明治天皇と美貌の昭憲皇太后が築いたものだ。
 日が昇り始めると、東北の山形、九州の博多、本州北部の盛岡、そして“電気街”として有名な秋葉原で、街の一日がダイナミックに息づき始める。うなり声をあげる機械、呑み込みが早い作業者、知性あふれる研究者、抜け目のないマネージャー、そしてこれらが集中する職場では産業リズムが高まり、まじめを第一とする日本的価値観を生み出す。そう、その価値観はどこにでも見て取れるのだ。たとえば、家庭生活にも教育現場でも、あるいはひらがなやカタカナが踊る工業製品にも、日本人の国民性が表れている。
 だから、私が次にイメージしたものが、何百万という日本製自動車がインドネシアの街にあふれている光景であっても、別に驚きもしない。スズキ自動車が販売するエスキューデやバレノ、キャリー、サイドキック、カタナ、トヨタのカローラ、スターレット、コロナ、クラウン、ランドクルーザ、そしてホンダのエスティロ、アコード、ジェニオ、マエストロ等等。
 同様に、日立やシャープ、ソニー、Sunny、Digitec、Sunkenのテレビがアジア各国の家庭に鎮座し、事務所や工場、企業、学校にまでシチズンやカシオ、Taksonの計算機があふれている。さらに、ニコンやフジ、ヤシカ製品は世界中の自然美を画像にする。その他にも繊維製品や船舶設計、製鉄、道路建設、産業機械、半導体等、枚挙にいとまがない。私にとって日本の成功は以外でも驚きでもなく、尊敬と賞賛の対象である。なぜなら、固い信念とたゆまぬ努力があれば必ず成功できる、と私の理性が確信しているからだ。そう、自動車はもっとも有名な日本製品で、日本は自動車生産大国になることに成功した。1995年の統計では、日本は1,020万台の四輪者やバス、トラックを生産し、その生産量は世界第一位である。同様に、世界一速い新幹線が九州の博多から本州北部の盛岡までを結んでいることも思い出す。また、日本は世界第一の通信産業国であり、アジアで最大の農産物輸入国であると同時に、世界最大の機械輸出国でもある。
 太陽がてっぺんに到達する。摂氏30度を越える猛暑が、汚職や癒着スキャンダルを白日の下にさらし、企業の破綻を招いた経営陣の不祥事を表面化させる。しかし、そのような暗い側面ばかり注目するのではなく、そのような事件に対して日本の学生や労働者のデモ隊がいかに雄々しく立ち向かったか、いかにして司法の理想主義が民主主義の花を咲かせ正義を貫き国民の信頼を勝ち得たか、を思い出したい。そしてその花は、ビジネスマンの職業倫理や政治倫理、日々の生活のなかでの倫理感という芳しい香を放つことになるのである。
 日本の空が夕焼けに染まり始める頃、私はまだ空想に漂っている。日が暮れ始めても、工場やショッピングセンターの活動は衰えようとしない。誰もがグローバリゼーションの渦の中に自ら進んで飛び込んでいく。たとえば、ホンダ自動車会社の猛烈な忙しさや、トヨタ研究部門が自動車工学の水準を維持向上するために活発な活動を展開しているように。もちろん、ショッピングや遊楽の中心である原宿も例外ではない。そこはいつも賑やかで、明治神宮そばの代々木公園と明治通りとの間に位置する竹下通り周辺は日本人の日頃の行動を観察するのに最適な場所だ。この神宮は緑深い杜で、1964年の東京オリンピック開催時には会場となった所だ。大都会の真中の緑のオアシスさながらだ。
 西の空に太陽が沈み始め、地上のあらゆるものが闇に包まれ、人間の活動が終了する頃、キモノの美しい姿が私の脳裏に浮かび上がる。「桜の国」日本の伝統衣装であるキモノは、日本人の心正しさ、規律正しさ、目的達成のために労をいとわぬ気構え、そういった日本人の美点の象徴である。毎年東京で5月15日に行われる葵祭りの中で、往時の宮廷衣装を身にまとった人々が街を練り歩く姿が浮かんでくる。
 こうして、闇が夜を支配し始める。日本のイメージが、途絶えることなく浮かんでくる。一月一日の元旦には、日本人は特別な食事をする。天ぷら、すし、そば、うどん、すきやき、とりすき、そしてとり鍋。日本独特の料理で、外国人にも評判が良い料理だ。
 ここで、私は真夜中に佇む日本人を空想する。生活の脈動はそろそろ鎮まりはじめるころだ。鎮まるからといって後退するわけではない。なぜならば、ゆっくりとしたテンポは、張り詰めた緊張が緩和する状態で起こる現象だからだ。まるでそれは、タイ捨流剣法や相撲、柔道、剣道といった武道に見られる油断なき弛緩状態のようなものだ。現在、柔道は世界的スポーツとして夏季オリンピックの公式種目にもなっている。
 夜が白みはじめる頃、私は問いかける。“日出る国”日本について私が知っていることはもうないだろうか、と。インドネシアとの関係はどうか。世界とはどうか。そうたずねられれば、私にはまだまだ答えられることがある。
 しかし残念だが、このへんで止めておきたい。なぜならば、私の中の日本に関する知識は全て、頭の中だけに実在するものに他ならないから。実は、あなたがこのエッセイ読んでいる現在、私はまだ日本に行ったことはない。私の知識は、同級生や近所の遊び友だち、遠くにいる文通仲間、あるいはインドネシアの印刷メディアや電子メディアで得たものだ。いうなれば、私はただ何千マイルも離れた地から記憶と感覚をたよりに日本の像を写し取ろうとする若者にすぎない。そう、ジョクジャカルタからジャカルタを通じて日本までの間に横たわる距離を超えて。

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